子どもが1歳になりました。
日々の成長は見ていてまったく飽きることがありません。
子どもの成長を通じて、学ぶことがたくさんあります。私自身も子どもに成長させてもらっているようです。
人間は自分でやり方を見つける力を持っている
アメリカの元大統領であるエイブラハム・リンカーンはかつて「意志あるところに道は開ける」という名言を残しました。
つまり、それを実現したいという強い思いがあれば、その道は開けるということです。
私たち大人がなにも教えなくても、赤ちゃんはハイハイをし、歩けるようになります。
ハイハイのきっかけは「手を伸ばしても届かない物を取りたい」とか「母親の近くに行きたい」という強い意思(欲求)によるものだと思います。
誰かに何かを教わらなくても「こうしたい」という強い思いがあれば、人の脳が自動的に「それを実現するための最適な方法(ときには最適ではないかもしれないけど)」を発明します。
方法論を編み出しても、自分の意思に反して、最初は筋力が追いつかないものです。
しかし、強い思いがあればいずれ神経や筋力が発達し、ハイハイができるようになり、そして遠くにある物を掴んだり、自分の力で母親のそばに行けるようになるわけです。
ここで言う「筋力」とは、大人の世界では「知力」や「権力」や「資本力」などと言い換えられるかもしれません。
今、それを実現するための手持ちのカードを持っているかどうかは、それを実現できるかどうかとは関係がないということです。
子どもの成長を見ていると、誰が教えるわけでもなく、実現したいという欲求だけで、不可能を可能にしていると思えることがたくさんあります。
赤ん坊は究極の「持たざるもの」と言えるでしょう。
しかし皆、持たざる状態から意思の力によって(誰にも教わらなくても)独自の方法論を発見し、それを実現するための筋力を身につけ、不可能を可能にしているのです。
強い意思(意志)があれば、いずれ人はそれを実現する。
もちろん時間はかかりますが、すべての人が「発明する力(自分の力で答えにたどりつく力)」を持っているというのが私の気付きです。
まねすることが学習の近道
ある程度成長し、知識がつくと、子どもは大人のマネをするようになります。
今は行動を真似るだけですが、そのうち大人の言葉(発言)も真似するようになるでしょうから、私も自分の発する言葉には気をつけなくては。などと思っています。
人は、他人をまねることで学習する力を持っています。時間をかけて自ら発明をしなくても、人を見て真似ればよいのです。
大人の世界では、真似することは悪いことだ。という風潮もありますが、人が誰かを真似ることは本来、自然なことなのだと私は思います。
子どもを見ていて、ふと感じたのは、真似されることは、いわばリスペクトされていることでもある。ということです。
このように考えると、他の人に真似されることは喜ぶべきことだし、もっと真似してもらえるような存在にならなければ。という考えになり「真似すること、真似されること」に対して前向きに捉えることができます。
自分の意思で新たな方法論を発明するには、膨大な時間がかかります。
しかし、他の人のやり方を見て真似ることで、新たな考え方、新たな方法論を次々に獲得することができます。
真似することは、学習(新たな方法や知識を身につけること)をスピードアップさせる素晴らしい方法なのだと、改めて子どもから学びました。
もし何かを素早く学びたいのであれば、優秀な人に教えてもらうのではなく、「優秀な人のやり方を見ることができる環境に身を置く。優秀な人を観察する。」ことをやってみるのが良いと思います。
人から教えてもらうことは?
私たちが学習する方法には、その他にも
- 人から教えてもらう(授業を受けるなど)
- 人に答えを聞く(先生にわからないことを聞くなど)
というやり方があります。むしろこれらの学習方法の方が一般的です。
しかし、これは私の経験上の話なのですが、人から教えてもらったり、人に答えを聞くというやり方だと、なかなか身につかないと思うのです。
頭に入ってこなかったり、その後の行動につながらないことが多い気がします。
もちろんこれは、自分の意思の問題であって、自分が心から「人に教えてもらった学びを活かすのだ」という気持ちでいれば、人から教えてもらったり、人に答えを聞くというやり方も効果的だと思います。
しかし、相手に対して何かを教えるときには「その具体的なやり方を教えたり」「相手の質問に対して、直接的な回答をする」ということをやってしまうと、相手の意思が弱い場合、身につかないことが多いと思うのです。
わかりやすく言えば、家庭では「子どもに言い聞かせても聞かない」、仕事では「部下に何度指導しても同じ間違いを繰り返す」みたいなことです。
私はこのことに気づいてから、必要以上に教えることをやめました。
例えば、子どもが積み木を放り投げて遊んでいたら(本来の使い方ではないやり方をしていたら)、積み木はこうやって遊ぶのだ。と正しいやり方を必要以上に教えることなく、放っておくことにしたのです。
やりたいようにやらせておけば、子どもの脳は勝手に「それを実現するための最適な方法(ときには最適ではないかもしれないけど)」を発明するだろうと信じることにしたのです。
正しいやり方を何でも教えてしまうのは「子どもが自ら学ぶ機会(発明する機会、自分で気づく機会)を奪ってしまっているのではないか?」と思うようになりました。
上記では子どもの事例を取り上げましたが、会社なら部下に対して、そして自分自身が子どもの立場にあるときも同じです。
答えをすぐに知ってしまうこと(自分が教える立場にあるときは、答えをすぐに相手に教えてしまうこと)は、効率的なように見えて、実は弊害もあるのではないか。と思うのです。
私は昔、すぐ人に聞いてしまう、すぐ誰かに答えを求めてしまう性格でした。
しかしこれだと、教えてもらったことが身につきにくいということに気づき、それからはできるだけ「誰かに聞くことができない環境、自分でやらざるを得ない環境に身を置く。」ということをやっています。
まねごとの先にあるもの
人のまねをすることは、とても効率よく学ぶ方法であり、自分の身になりやすいという気づきをお伝えしました。
しかし、本当に大切なのは「まねごとの先にある、独自のアイデアや方法論」であることは言うまでもありません。
先輩から学んだ(学び取った)ことを昇華させ、独自の方法論として完成させる、つまり最終的には発明をすることが、自分だけの価値につながっていくのです。
教えてもらったこと、真似して学んだことを種として、さらに発展させ、自分の中からオリジナルを生み出す。
これは一見難しいことのように思えますが、そんなことはありません。
冒頭でお伝えしたように、私たちは赤ん坊のころから「発明する力(自分の力で答えにたどりつく力)」を身につけています。
しかし現代社会では、学校の授業であったり、(Google検索やSNSなどで)誰かに聞けばすぐに回答が得られる仕組みが整いすぎた結果、自分の意思で時間をかけて答えにたどりつこうとしない人が増えているように思います。
「発明する力」こそが本当に大切なのに、その能力を持っていることを忘れてしまっている、もしくはその能力を使うのが面倒だと感じる人が多いように思うのです。
また、私自身の反省でもあるのですが、こうした能力はときとして「非効率である」「効率的ではない」という言葉によって、使わないことを正当化してしまうこともあります。
「私たちはいつも忙しく、忙しさゆえに考えている暇などどこにもない。Googleで検索すれば3秒でわかる答えを、3時間もかけて考える必要がどこにあるのだろう。」こんな具合です。
社会はテクノロジーの進化とともに効率化され、素早く調べ、素早く回答する文化が醸成される中で、こうした「非効率だけど時間をかけて自分で答えにたどりつく力」は過小評価されていると感じます。
かの有名なアインシュタインも、「発明する力(自分の力で答えにたどりつく力)」の大切さについて何度も言及しています。
知識は二つの形で存在する。ひとつは、本の中に、生命のない形で。もうひとつは、人の意識の中に、生きている形で。後者こそがとにかく本質的なものである。前者は絶対必要であるように見えるがたいしたことはない。
専門的な知識を習得することではなく、自分の頭で考えたり判断する一般的な能力を発達させることが、いつでも第一に優先されるべきです。
教育とは、みずから考え行動できる人間をつくること
私は天才じゃありません、ただ1つの物事について長く考え続けてきただけです
人間が頭で考えることは、すべて実現可能である
ー いずれもアルバート・アインシュタインの言葉
1つのことに向き合い、長く、深く考え続けていると、独自の論理やアイデアが出てくるものです。
効率よく得られる答え(インスタント回答と言いましょう)を求めるのではなく、自分が知る側にあるときも、自分が教える側になるときも、あえて非効率な方法を選択してみる。
これが今の自分のテーマでもあります。