私たちの社会は信用によって成り立っています。
一般の方にはあまりなじみがないかもしれませんが、ビジネスのほとんどは「掛取引」と呼ばれる信用取引で行われています。
「掛取引」とは、商品を仕入れた日と、その代金を支払う日がずれることです。「請求書払い(後払い)」というとわかりやすいかもしれません。
同じく、お金を借りて家を建てるのも、その人が将来、借りたお金を返してくれるという信用によって成り立っています。
また、クレジットカードの支払いも、翌月その人がカードの利用金額を支払ってくれるという信用があってこそ成立している取引です。
東京タワーや東京スカイツリーのような巨大な建物も、信用がなければ建てることはできなかったでしょう。
信用取引があることで、私たちの社会はより早く、より大きく成長してきました。
信用は時に、信用収縮のような大きな損害を社会にもたらします。しかしそれでも、私たちの社会には必要不可欠なものだと思います。
信用は少しずつ加速しながら大きくなる
信用は、過去の成果・実績を元に少しずつ大きくなります。
ある不動産会社が六本木ヒルズを建設したいと申し出ても、その不動産会社に過去の実績・成果といった信用がなければ、銀行はお金を貸してくれませんし、協力者も現れなかったはずです。
言葉ではなく行動で信用を評価する
「日本資本主義の父」と言われている渋沢栄一はこのように言っています。
信用は暖簾(のれん)や外観の設備だけで、収め得られるものではなく、確乎たる信念から生ずるものである。
渋沢栄一は、肩書や見た目、保有している資産などで信用を測るべきではなく、信念を持つことが信用の創造に繋がると言っています。
この考え方は素晴らしいと思うのですが、一方で私は「言葉で信念を語り、行動が伴わない人」には注意すべきだと考えています。
SNSが普及したことで、「言葉」がより強い力を持つようになりました。
こうした流れに伴い、大きなビジョンを語って期待感を煽ったり、口当たりの良い言葉で人の支持を集めようとする人が増えたと感じています。
しかし、そうした言葉から生まれる信念は必ずしも本当であるとは言い切れません。よく観察してみると、言葉とは裏腹に、行動が伴っていない人や企業も意外と多いように思うのです。
また、最近はインターネットに書かれているプロフィールや、その人のSNSの発言をあてにして、一度も会ったことがない人を簡単に信用したり、頼ったりしてしまう人が増えているようです。
しかし、SNSで私たちが見ているのは真実ではなく「その人が他人に見せたい発言・見せたい行動」ではないでしょうか。
SNSがそれくらい大きな影響力を持っているということなのでしょうが、真実を知ることなく、「その人が他人に見せたい発言・見せたい行動・見せたい経歴・見せたい資産」だけを見て、人を信用してしまうのは少し危険だと考えます。
ネット上では輝いているように見えても、実際に会ってみると普通の人である。というのはよくある話です。
テレビの中のタレントを見て、そのタレントの(テレビの前ではない)プライベートな性格まで知っていると勘違いしてしまうことに似ていますね。
信用の裏付けが「他の人が信用しているから」というのはあまりに危険
繰り返しますが、信用は連続的に大きくなっていきます。
しかし、どれだけ信用が大きくなっても、その幹となる物体の信用度が増すわけではありません。
映画「マネー・ショート」に、カジノで賭け事をするシーンがあります。
この場面では、行動経済学者のリチャード・セイラーが登場し、「人は過去に起こったことはこれからも起きやすいと錯覚する」ことについて語っています。(専門用語で、外挿バイアスというそうです)
しかし私がこのシーンで特に気になったのは、「信用は連続的に大きくなるが、その幹は何一つ変わっていない」という事実です。
このシーンでは、まず最初に2人がカジノで賭けをしているところからスタートします。
しかし、それを見た見物客が「賭けをしている2人のどちらが勝つか?」という「賭け事に対する賭け」を始めます。すると、また別の見物客が「賭けに対する賭けに対する賭け」を始めます。
ここで面白いのは、参加者が多いほど「賭けの倍率が上がっていく」ということです。(賭けの結果が多くの参加者の予想と違うものになると、その被害はドミノ倒しのように巨大なものになります)
Aが勝つか、Bが勝つかの確率が5分5分でも、Aが勝つ方に賭けている1万人の支持者が存在する、もしくは自分が尊敬・信頼している人物がAに賭けていたりすると、Aが勝つ確率の方が高いと人は錯覚します。
しかし、どれだけの人がAを支持しても、どれだけその分野の権威がAを支持していても、最初の賭けである「Aが勝つか?Bが勝つか?」という「幹」の部分は何一つ変わりません。
つまり、「多くの人が信用している」ということが裏付けとなり、何も変わっていない物が、あたかも信用度の高いものに思えてしまうのです。
多くの人が信用しているからといって、「右にならえ」をしてしまうのは、人がついやってしまいがちな危険な判断だと思います。
繰り返しますが「他の人が信用している」ことが信用の裏付けになっている場合は、一度立ち止まって冷静になり、疑いから入ってみるだけの価値があるはずです。